2016-07-15(Fri)
幻となった「西京市」
幻となった「西京市」
「門司」「小倉」「八幡」「若松」「戸畑」
の5市合併話は、色々の組み合わせで、明治、
大正、昭和の三代にわたって、百年前から論
議されてきたが、本格的になったのは、昭和
に入ってからであった。
私の出身の「門司」は、明治32年は、門司市
制実施時の合併相手に「赤間関市」(現・下
関市)があったようだ。
現在の「関門市(下関と門司の合併)合併構想」
である。
「門司」の商業会議所会頭だった中野金次郎さ
んが、大正14年に、門司と下関の県際合併を提
議した「海峽大觀」を発行されて推進したが、
合併実現には至らなかった。
1963年(昭和38年)2月10日に5市合併したが、
市名を決める時は、各市の市長が自分の市の市
名を残したいが叶わず、全国公募となった。
賞金は十万円でした。
応募数137,100票だった。
1番は「西京市」の12,000百票、2番目が「北九州市」
で6,600票、3番が「玄海市」で4,100票、4位が「洞
海市」で4,000票だった。
その後、諮問委員会の答申をへて五市の市長と議長の
特別委員会で検討されて、1番は「西京市」に決まりか
かったところで、「天子様がおられた歴史がないのに、
京と名乗っていいのか」との意見が出た為、2番目の
「北九州市」に決まったようである。
北九州は、大正12年頃から国定教科書に「北九州工業地
帯」の記述があったため、宣伝も不要と考えた事も理由
の一つであるようだ。
5市合併の成功の要因は、やはり政令指定都市の実現では
なかったのだろうか。
しかし、政令指定都市になり、市の財政が潤沢になったが、
5市それぞれが、予算を分けて均等に成長しようとした結果
都心がせいぜい三十万都市並みのセンターとしてしかなく
若者に魅力にない都市になってしまった。
現在は、いろいろ手を打っているが、人口100万人も切って
しまい、今後のうち手に期待が掛かるところである。
雅な市名、「西京市」
この市名だったら、今頃どうなっていたのだろう。
「門司」「小倉」「八幡」「若松」「戸畑」
の5市合併話は、色々の組み合わせで、明治、
大正、昭和の三代にわたって、百年前から論
議されてきたが、本格的になったのは、昭和
に入ってからであった。
私の出身の「門司」は、明治32年は、門司市
制実施時の合併相手に「赤間関市」(現・下
関市)があったようだ。
現在の「関門市(下関と門司の合併)合併構想」
である。
「門司」の商業会議所会頭だった中野金次郎さ
んが、大正14年に、門司と下関の県際合併を提
議した「海峽大觀」を発行されて推進したが、
合併実現には至らなかった。
1963年(昭和38年)2月10日に5市合併したが、
市名を決める時は、各市の市長が自分の市の市
名を残したいが叶わず、全国公募となった。
賞金は十万円でした。
応募数137,100票だった。
1番は「西京市」の12,000百票、2番目が「北九州市」
で6,600票、3番が「玄海市」で4,100票、4位が「洞
海市」で4,000票だった。
その後、諮問委員会の答申をへて五市の市長と議長の
特別委員会で検討されて、1番は「西京市」に決まりか
かったところで、「天子様がおられた歴史がないのに、
京と名乗っていいのか」との意見が出た為、2番目の
「北九州市」に決まったようである。
北九州は、大正12年頃から国定教科書に「北九州工業地
帯」の記述があったため、宣伝も不要と考えた事も理由
の一つであるようだ。
5市合併の成功の要因は、やはり政令指定都市の実現では
なかったのだろうか。
しかし、政令指定都市になり、市の財政が潤沢になったが、
5市それぞれが、予算を分けて均等に成長しようとした結果
都心がせいぜい三十万都市並みのセンターとしてしかなく
若者に魅力にない都市になってしまった。
現在は、いろいろ手を打っているが、人口100万人も切って
しまい、今後のうち手に期待が掛かるところである。
雅な市名、「西京市」
この市名だったら、今頃どうなっていたのだろう。
「門司」「小倉」「八幡」「若松」「戸畑」
の5市合併話は、色々の組み合わせで、明治、
大正、昭和の三代にわたって、百年前から論
議されてきたが、本格的になったのは、昭和
に入ってからであった。
私の出身の「門司」は、明治32年は、門司市
制実施時の合併相手に「赤間関市」(現・下
関市)があったようだ。
現在の「関門市(下関と門司の合併)合併構想」
である。
「門司」の商業会議所会頭だった中野金次郎さ
んが、大正14年に、門司と下関の県際合併を提
議した「海峽大觀」を発行されて推進したが、
合併実現には至らなかった。
1963年(昭和38年)2月10日に5市合併したが、
市名を決める時は、各市の市長が自分の市の市
名を残したいが叶わず、全国公募となった。
賞金は十万円でした。
応募数137,100票だった。
1番は「西京市」の12,000百票、2番目が「北九州市」
で6,600票、3番が「玄海市」で4,100票、4位が「洞
海市」で4,000票だった。
その後、諮問委員会の答申をへて五市の市長と議長の
特別委員会で検討されて、1番は「西京市」に決まりか
かったところで、「天子様がおられた歴史がないのに、
京と名乗っていいのか」との意見が出た為、2番目の
「北九州市」に決まったようである。
北九州は、大正12年頃から国定教科書に「北九州工業地
帯」の記述があったため、宣伝も不要と考えた事も理由
の一つであるようだ。
5市合併の成功の要因は、やはり政令指定都市の実現では
なかったのだろうか。
しかし、政令指定都市になり、市の財政が潤沢になったが、
5市それぞれが、予算を分けて均等に成長しようとした結果
都心がせいぜい三十万都市並みのセンターとしてしかなく
若者に魅力にない都市になってしまった。
現在は、いろいろ手を打っているが、人口100万人も切って
しまい、今後のうち手に期待が掛かるところである。
雅な市名、「西京市」
この市名だったら、今頃どうなっていたのだろう。
「門司」「小倉」「八幡」「若松」「戸畑」
の5市合併話は、色々の組み合わせで、明治、
大正、昭和の三代にわたって、百年前から論
議されてきたが、本格的になったのは、昭和
に入ってからであった。
私の出身の「門司」は、明治32年は、門司市
制実施時の合併相手に「赤間関市」(現・下
関市)があったようだ。
現在の「関門市(下関と門司の合併)合併構想」
である。
「門司」の商業会議所会頭だった中野金次郎さ
んが、大正14年に、門司と下関の県際合併を提
議した「海峽大觀」を発行されて推進したが、
合併実現には至らなかった。
1963年(昭和38年)2月10日に5市合併したが、
市名を決める時は、各市の市長が自分の市の市
名を残したいが叶わず、全国公募となった。
賞金は十万円でした。
応募数137,100票だった。
1番は「西京市」の12,000百票、2番目が「北九州市」
で6,600票、3番が「玄海市」で4,100票、4位が「洞
海市」で4,000票だった。
その後、諮問委員会の答申をへて五市の市長と議長の
特別委員会で検討されて、1番は「西京市」に決まりか
かったところで、「天子様がおられた歴史がないのに、
京と名乗っていいのか」との意見が出た為、2番目の
「北九州市」に決まったようである。
北九州は、大正12年頃から国定教科書に「北九州工業地
帯」の記述があったため、宣伝も不要と考えた事も理由
の一つであるようだ。
5市合併の成功の要因は、やはり政令指定都市の実現では
なかったのだろうか。
しかし、政令指定都市になり、市の財政が潤沢になったが、
5市それぞれが、予算を分けて均等に成長しようとした結果
都心がせいぜい三十万都市並みのセンターとしてしかなく
若者に魅力にない都市になってしまった。
現在は、いろいろ手を打っているが、人口100万人も切って
しまい、今後のうち手に期待が掛かるところである。
雅な市名、「西京市」
この市名だったら、今頃どうなっていたのだろう。